「光クラブ」事件 東大・山崎晃嗣の日記・遺書から見る闇金融事件とは?

9月23日のTBS「爆報!THEフライデー」
1948年、現役東大生だった山崎晃嗣が設立した闇金融会社によるミステリー、
「光クラブ」事件が放送されます。
東大の黒歴史、東大史上最も天才と呼ばれた山崎晃嗣とはどんな人物だったのか?
なぜ山崎晃嗣は闇金融に走ったのか?
2007年に見つかった直筆ノート3冊の日記や自ら命を絶った山崎晃嗣の遺書から、
最後まで徹底した合理主義を貫いた一人の天才の謎が紐解かれます。


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山崎晃嗣
出展:http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10988922792.html

光クラブ事件とは?

1948年(昭和23年)9月、東大生だった山崎晃嗣(やまざきあきつぐ)は
金融会社で知り合った日本医大生・三木仙也(当時25歳)とともに
1万5千円を元手に貸金融会社「光クラブ」を東京都中野区鍋屋横丁に設立します。
当時の公務員の初任給が約6000円の時代で現在の価値で約40万円程度の金額です。

山崎晃嗣はその資金を全て使って新聞広告を出し
「遊金利息 月1割3分」「確実と近代性をほこる日本ただひとつの金融会社」と
銘打って資金を集めます。
当時は終戦直後の混乱期で市場は金詰まりの状況だったため
集まった資金は商店・中小企業者に月2割1分から3割の高利で短期貸付されていきます。
現役東大生が社長であることや「光クラブ」という新鮮なネーミングが世間の評判を呼び、
「光クラブ」は急成長、わずか4ヶ月で銀座に資本金600万円、株主400人、
社員30名の会社になっていったのです。

山崎晃嗣の「読み」は見事に時流を捉えていました。
集めた資金の配当は月1割3分(13%)の一方、貸付金の利息は2割1分(21%)から3割(30%)。
何もしなくても8%から17%もの利益が出ることになります。
しかも出資する側にとっても100万円で月13万円もの配当が返ってくるシステムで
金が集まるのは当然の成り行きだったのです。

そもそも山崎晃嗣がこうした高利の貸金業に手を染めたのは
戦後、東大に復学した昭和21年(当時23歳)の頃に闇金融に
金をだまし取られたことに起因していたようです。
1946年(昭和21年)8月、山崎は偶然立ち寄った中野財務協会という会社で
アメリカ向けの玩具輸出メーカーへの投資を勧められます。
配当は破格の月2割、
その金に目がくらんだ山崎は以前から家族に運用を頼まれていた10万円を
そこに投じてしまったのです。
当時の10万円は現在で約300万円ほど。
しかし中野財務協会の理事長は当時札付きの詐欺師で、結局その10万円は戻ってきませんでした。
しかしそれを山崎は後悔するどころか、
自分ならもっとうまくやれる、と高利貸しの世界に足を踏み入れることになったのです。

山崎晃嗣は「ヒカリ戦陣訓」を事務所の壁に貼っていました。

一、権利のための闘争だ
二、人生はすべてこれ劇場なり
三、金利の鬼となれ
四、バクチには生命を賭けよ
五、ヒトのものはわがもの自分のものは自分のものと思え
引用:http://03.xmbs.jp/ch.php?ID=ryuhpms50&c_num=181239


案の定、「光クラブ」は大成功しますが、
当時、利息制限法による法定利息は月9分(9%)だったため
「光クラブ」の13%は違法、当然のように警察が動き出します。
そして1949年(昭和24年)7月4日、物価統制令、銀行法違反で
京橋署に逮捕されてしまうのです。

絶頂期の山崎晃嗣は女性関係も派手で一時は6人もの愛人がいたといいます。
しかしその一人で社長秘書の募集で入ってきた松本啓子が実は税務署のスパイで
そこから「光クラブ」の資金・経営の実態が税務署につつぬけになっていたようです。

その後山崎は不起訴になったものの一気に出資者からの信頼を失い会社の業績は悪化。
ついには「光クラブ」の名前を変えたり、株の空売りまでして資金調達を試みるものの
394人の債権者から約3000万円の出資金の返済を迫られ、
債務を履行できなくなった山崎は1949年11月24日深夜、青酸カリで自ら命を絶ったのです。
山崎の銀行通帳にはわずか2700円しか残ってなかったといいます。


1949年(昭和24年11月26日)付 朝日新聞記事
昭和24年11月26日付 朝日新聞記事
出展:http://hurec.bz/mt/archives/2006/09/491_197107.html


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山崎晃嗣とはどんな人物だったのか?

それでは山崎晃嗣とはいったいどんな人物だったのか?
2007年に山崎晃嗣の大学ノート3冊分の日記が
東京・神田の古本まつりに出品され発見されています。

山崎晃嗣の生い立ちと戦争

1923年10月、千葉県木更津市に生まれ。
父親の山崎直は第一高等学校(現・東京大学教養学部)から京都帝国大学医学部を卒業、
医学博士となって後に木更津市長にもなった人物。
叔父も東京帝大で法学博士と医学博士を取得して『正四位勲二等瑞宝章』に叙せられた人物。
母・山崎夫沙子は現在の東京芸術大学を卒業した音楽家という「華麗なる一族」の
五男の末弟として育ちます。
まさに絵に書いたようなサラブレッドで兄弟の中でも最も勉強のできた晃嗣は
両親から一番可愛がられていたようですが、
父親からは東大医学部の教授か医者になることを強く望まれていたようで
後に東大法学部に進学した山崎と父との間に確執もあったようです。

1943年(昭和18年)東大法学部に合格したものの
時代は戦争の真っ只中で10月には学徒出陣で入隊することになります。
しかし山崎は
「このままでは間違いなく最前線に送られる。どうせ兵隊になるなら一番楽なところがいい」と
陸軍主計少尉に任官、北海道・旭川の「北部第一七八部隊」に配属されます。

ところが敗戦色が濃くなってきた戦争末期当時の部隊では
隊長や参謀らが自ら軍務そっちのけで米や油などを横流ししていたのが現状でした。
また学徒兵として山崎のような経理将校を目指すものは
最前線に行って命を落としたくないと考えていた者が多く、
そのためそんな経理将校を目指す経理士官見習いの学徒兵は
当時の教育隊の職業軍人たちからひどいリンチを受けていたようです。
この時、山崎は東大の同級生の親友をリンチで失いますが、
事件は事故死として隠蔽されて処理されていまいます。

結局、山崎は終戦を旭川の部隊で主計少尉として迎えることになりますが、
上官の命令で管理していた米や砂糖などを横流ししたことを密告され横領罪で逮捕されてしまいます。
山崎は上官をかばい1人で罪を背負って懲役1年半執行猶予3年の実刑判決を受けますが、
出獄した時に横領に協力した物資は上官から
ビタ一文とも山崎に分け与えられることはなかったといいます。

これらの戦時中の体験は山崎に「人間の性は本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である」と
後の人生観に暗い陰を落とすことになるのです。
そして人間に深く失望した山崎はその後、徹底した合理主義に目覚めることになります。

東大に復学、「全優」を目指す

1946年(昭和21年)2月、山崎は東大に復学します。
戦時中の体験で「義理」「人情」という感情に愛想をつかした山崎は
人間の能力の限界を追求するとし、徹底した合理主義を実戦、
誰もなし得なかった東大で20科目全てで「優」を取ることを目標にかかげ
まるで電車の時刻表のような毎日を送っていきます。

1日24時間を5分~30分ごとに刻んで緻密な自らの行動計画を立て、
「有益時間1~6等」「無益時間」「中立時間」「睡眠時間」「女色時間」など
それを「◯」や「△」で表示して徹底的に行動を管理していくのです。
しかしこの異常とも言える行動と猛勉強にもかかわらず
結局「優」17科目、「良」3科目という結果に終わりショックを受けた山崎は失望するも・・・
「教授の嗜好や気まぐれで優・良・可が決められることに馬鹿馬鹿しくなった」と
後の日記に書いています。


山崎晃嗣直筆の大学ノートの日記
山崎晃嗣直筆の大学ノートの日記
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Student%20Life%20Ideal%20Schedule.htm

山崎晃嗣の日記と遺書

2007年に見つかった日記は山崎晃嗣が東大に復学して実家に戻った
1946年3月24日から「光クラブ」を設立する前の1947年12月までのものです。
日記は

「楽しいから生きてゐる。楽しみがなくなり苦しみが生じたら死ぬばかりである。
生命などといふものは要するにつまらないものである」
引用:http://book.asahi.com/news/TKY200710200181.html

という書き出しで始まっています。

また日記の最後には

私の合理主義からは、契約は完全履行を強制されていると解すべきだ。
契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。
私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。
私は物体にかえることによって理論的統一をまっとうとする。
引用:http://yabusaka.moo.jp/hikariclub.htm

「光クラブ」の終焉によってまさかこの日記の最後の言葉が
その後の山崎の運命を予感していたものだったことは、驚きです。

山崎晃嗣の遺書には・・・
私は行き詰まったからでも、債権者に死んでお詫びするのでもない。
契約は人間と人間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。
そのために私は死ぬ。という意味の内容が記されていたといいますが・・・、
まさに山崎晃嗣は最後まで自分の合理主義を貫いた人生だったようです。

後にこの「光クラブ」事件は三島由紀夫の『青の時代』や
高木彬光の『白昼の死角』として小説化されています。


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